瑞泰寺は京都の浄土宗総本山知恩院の末寺として、江戸神田明神下に創建された。
当初この寺は開祖(初代住職)光蓮社勝誉上人桂芳和尚の法号に因んで「桂芳院」と号していたといわれる。
なお、桂芳和尚はまれにみる丈夫な方で百三十余歳の天寿を全うされたと伝えられている。
第二世は、真蓮社体誉上人天茂和尚と云い、後に願行寺の住職となられた方である。
第三世大誉上人(天和八年(1636年)十二月十六日寂)の時、丹後国城主京極院修理大夫高三君が前城主丹後守高知公の冥福を祈るため、新たに仏殿(すなわち本堂)・僧房・山門等を造改築し、高知公の法号「瑞泰院」を取って、改めて瑞泰院と名づけ、京極家の菩提寺と定めた。この因縁により当寺の正式名称を「桂芳院 護念院 瑞泰寺」というのである。
慶安元年(1648年)第四世教誉上人厳茂和尚の時、寺域が幕府御用地となって召し上げられ、その代替地として駒込の地(すなわち現地)を与えられ、同年のうちに移転した。
この寺が神田明神下に開かれたより、三百九十余年の長い年月がたっている。
当寺は、東都六地蔵第一番の礼所となっている寺である。この地蔵尊は、元禄年間に木食空無上人みずから作られた銅像で、身丈八尺(約2.4メートル)であったと伝えられているが、大正の関東大震災で破損。さらに、惜しくも第二次大戦の戦火によって焼失し、現在は石の大仏が安置してある。この地蔵尊の正式名称は、「壇陀地蔵」と云い、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)のうち地獄堂に落ちた人々を救う地蔵様である。
戦前はこの地蔵尊のご守護として目薬を授けていた。昭和の初期までは縁日が立ち、また第二次世界大戦が始まるまでは、地蔵講の人々が毎月集まって講を開いていたが、戦争が激しくなるに併せていつの間にか立ち消えになってしまった。